本文へスキップ

 エルフュー犬舎主Brian Tailor Hays氏公認

◆ 米国エルフュー犬舎創立者の偉業を紹介します。

このページは、戦後に通信兵として駐留されたトルーマンコールス氏からの知識と情報を基に著書やAmericanField誌を通じて学習した60年に及ぶ情報を思い出しながらの投稿で、順不同ですが、ご勘弁下さい。

ギャラリー

イメージ01

ELHEW SNAKEFOOT

エルフュー・スネーク・フットはナショナル・チャンピオンを創造するために計算された誕生でした。
スネーク・フットはナショナル・シューティング・ドック・チャンピオンシップとマスターズ・チャンピオンシップを続けて獲得し、シューティング・ドック・オブ・ザ・イヤーと、2005年に殿堂入りと言う輝かしい功績を残しました。

イメージ02

3万頭以上の中からの一頭

5頭の州チャンピオンと1頭のナショナル・チャンピオン・グリーナウェイ・デンバー・サバランは、2歳で365日の乳汁分泌期間中に1日2度搾乳し、18,269ポンドのミルクを生産しました。
2,500ドルもの高額で雄の子牛を売ることができ、それは当時非常によい価格で、それは実用的な業務になりました。

イメージ03

ScotchHighlangCattle

スコッチ・ハイランド・キャトル牛の小群を繁殖しました。
スコットランド北部地方を起源とする非常に古い系統です。
厳しい気候条件に適応するために進化し、大量の皮毛、一般的に非常に丈夫で、雪中で食物を捜すことができます。
これらの従順で美しい動物は、ヘンダーソン近郊によく適合しました。

イメージ04

競走馬サラブレットのの繁殖

不運にも馬の系統を純化するには、犬で試みた50年間の繁殖と同じ結果を達成するには200年間以上必要です。
そこで全て売却しその中の1頭はウインと命名されて偉大な競走馬で3年立て続けにニューヨーク州のホース・オブ・ザ・イヤーになり、140万ドルを稼いで、全国のトップ・ホースの1頭になりました。

◆ 82年に及ぶエルフュー犬舎創立者ロバート・ゴードン・ウィールと
  エルフューポインター系統との関連や其の特徴や歴史を紹介します。
お知らせ

★ 繁殖プログラムの歴史と起源(Breeding History)
以下の文章を読み上げます。
 エルフュー犬舎創立者ロバート・G・ウィール氏は、ニューヨークとアラバマ州ミッドウェイで、1500エーカーを管理する犬舎でエルフュー系統繁殖を行っていました。
米国ではロバートを親しい意味を込めてボブと呼ぶそうですので以下ボブと呼びます。
ボブは1936年15才の若さでエルフュー犬舎での繁殖プログラムを開始しました。
ボブは長期的な繁殖計画を予想して繁殖プログラムの最終目的となる体構と心理的なスタンダードを採用しました。
それはそのタイプ通りの特質性能を何世代も絶える事の無い典型的なポインターの系統繁殖を実現したいという欲望でした。
この系統はフィールドトライアルでナショナルチャンピオンに勝利し見た目にも楽しく、最も鑑識眼のあるスポーツマンを満足させるポインターにとって必要な全ての特質を持つ系統でした。
これらの犬は体構とパフォーマンスにおいて傑出したものであり何年も評判となる特質を持ち、そしてスポーツマンが何世代も越えて誇りに出来るものでした。
50年の努力の結果ボブが大袈裟に予言した繁殖プログラムを達成し最終目的のナショナルチャンピオン・エルフュー・スネークフットの作出に成功しました。
ボブは、さらに進化したナショナルチャンピオン・エルフュー・トムフールを作出しそのエルフュー系統は連綿と継続されていきます。
ボブは生前2002年に、ボブの繁殖プログラムに基づいた素晴らしい系統繁殖が出来て信頼おけるマサチューセッツ洲ノースボローのブライアン・ヘイズとマーサ・ヘイズ夫妻に二代目エルフュー犬舎を後継者として任せました。
ヘイズ夫妻は2015年6月9日ブライアンが悪性の癌で60歳の若さでこの世を去るまでエルフュー系統を継承してきましたが、米国ではエルフュー系統の継承が出来る適任者が居ないので仕方無く2008年9月28日をもってエルフュー犬舎は、82年の歴史を閉じてしまいました。

   

米イリノイ州シカゴ市『アメリカン・フィールド』誌のご好意により掲載
     ( Coutesy of the American Field, Chicago, Illinois )
私は、ブライアンが亡くなる7年前の2008年にエルフー犬舎を訪問しました。
ブライアンは快く私を受け入れてくれましたが、悪性の癌で余命数年と言う状態でした。
ブライアンには、私のエルフュー系統の知識を理解して頂き、米国にはエルフュー系統を熟知して継承出来る人が居ないので日本でエルフュー系統の継承をお願いしたいと言われました。
責任のある夢のような話に驚きましたが、快く引き受けて男と男の約束、日本でエルフュー系統を継承する事を誓いました。
2010年に繁殖用のELHEW JAKEとELHEW MIDGEを輸入してその子供達を訓練して素晴らしいパフォーマンスを楽しんでいます。

★ ボブのこの話が理解出来れば米国に後継者が居無い理由が理解出来ると思います。
以下の文章を読み上げます。
 エルフュー系統の繁殖と言う視点から見れば、当時のフィールド・トライアルはエルフューポインターの特質を他の犬と比較する事が出来る大きな役割を果たしてくれました。
現在フィールド・トライアルの中で起こっている事は特にレンジは、比較する事をより困難にしています。
例えばオール・エージ・ステークは、そのステークが適応するように設計されたシューティング・ドックのオリジナルの概念とは全く似ても似つかぬ状態です。
現代のメジャーサーキットのオープン・シューティング・ドック・ステークは、これらのトライアルに勝つために必要なペースとレンジは、ボブが快適なシューティング・ドックつまり実猟犬とは全く似ても似つかぬものです。
ボブは何年も、快適なシューティング・ドックがフィールド・トライアルで正しく審査され入賞したか調べましたが無駄に終わってしまいました。
未熟で走るばかりの決起溢れる若い躾の出来て居無い乱暴者が勝ち抜きました。
この様な環境下で、大きなシューティング・ドック・ステークで勝つためには、ボブが快適なシューティング・ドックと思わないタイプの犬が必要になります。
そこで、ボブは、幾つかの理由で、パピー・ステークに参加することを全く止めて、ダービー・ステークやフュチュリティーにたまに参加します。
それらは、他のすべての特質を無視して、私の犬はあなたの犬よりもっと早く走れる事が出来る等と、ある種のマッチョ症候群のコンテストのようです。
また前回ボブがシューティング・ドック・フュチュリティーに参加して、年齢をごまかして出犬した4歳位の犬に負けてボブの犬は2位になったからです。
知能や体構および鳥発見能力本能を犠牲にして、あまりにも走る事を強調する事で、同様のシナリオが猟野系ポインターの系統で進展して居るのです。
この様な繁殖は、スポーティング・ドックの観衆の大部分によって認識されるような、素晴らしいシューティング・ドックのイメージを曇らせました。
それは本当に残念なことです。
ランニングのためだけに繁殖された犬は、犬種にとってどんな価値も貢献する事も無く建設的なものよりも多くのマイナスの効果を持っています。
グランド・ジャンクションでおこなわれるシューティング・ドック・チャンピオンシップは、入賞させようと最初に計画したタイプの犬とは、ほとんど類似点がない競技犬に賞を与えているように思います。
レポートによるとほとんどの犬は走り去ってしまったり、あるいは競技を完了していません。
以上の話は、1960年前後からの話ですが米国ではこの様なスポーティングドッグがフィールドトライアルの王座を独占しているのが現状です。
この様な系統の鳥猟犬達が1973年前後から日本へ商売目的で沢山輸入され、これにまつわる訓練技術も導入されました。

★ 立派な日本キジ猟犬の繁殖や訓練は夢物語にも現れなくなってしまいました。
以下の文章を読み上げます。
 日本のフィールドトライアル競技も1970年代から、鳥猟犬に日本キジ猟を習った先生方が高齢となり、指導が行き届かなくなり、良い日本キジ猟犬を目指した鳥猟犬訓練では無くフィールドトライアル競技で勝つための訓練に変わりつつありました。
私は、1979年に赤尾全猟会長が辞任して小宮莊次郎会長の新体制になった時に、全猟会員を止めました。
2006年に私と一緒に土佐猟犬研究所の師匠にWing&Shot訓練を学んだ割烹料理職人の猟友から依頼され米国からの持込腹のゼファーズ・パフォーマー・ベッキーとCH.ハンターズ・ビリー・レイで繁殖し7頭誕生しました。
この7頭の血統登録のため、29年ぶりに全猟会員となり犬舎名登録と血統登録を済ませました。
この繁殖で売れ残りの牝犬パラドックス・エリーのWing&Shot訓練を久し振りに行いました。
エリーは良く日本キジを獲らせてくれる日本キジ猟犬として仕上がったので、久し振りに全猟本部大会を見てみたくなり2008年に全猟春の大会へ出犬しましたがキジの出会いが無く入賞できませんでした。
私が一番驚いた事は、前夜祭に出席した出犬者達の服装です。
誰一人ネクタイ姿の人が居なく、まるで労働者が一日の仕事が終わり居酒屋に集まって労を労っているような雰囲気でした。
私は背広姿だったので慌てて普段着に着替えました。
赤尾会長の時代には背広姿は常識で会場の雰囲気も紳士が非常に多かったように思い出されます。
紳士で無くとも紳士のように振る舞わないと前夜祭の雰囲気に似合わない前夜祭会場でした。
競技の審査も私が良いと思っている鳥猟犬では、とても予選通過も無理だと確信しました。
その後は愛犬の社会化訓練のために競技会へ出犬しますが、私は勝つ目的の訓練は行わないでエルフューポインターのパフォーマンスを一人で楽しんでいます。

★ 鳥猟犬の開発者や鳥猟犬品評会の審査員についてボブの明確な解説です。
以下の文章を読み上げます。
 ボブは、芸術の世界に熱烈な激しい感情を持って、素晴らしい鳥猟犬を開発したり、鳥猟犬品評会の審査員をすると言う事は、芸術と同じであると断言しています。
それは、わが身を犠牲にして尽くし、技能や熟練による自己鍛練のトレーニングと学習観察能力が要求されるので素晴らしい鳥猟犬の開発で成功して居る人物は、音楽家・画家・彫刻家・作家の特質が絶対的条件と言っても過言で無いとボブは明確に断言しています。
 私も全くその様に思います。
最近の実猟犬を見るにつけ、その犬の猟芸以前の問題が山積しています。
 先ずその鳥猟犬のビジュアルつまり一瞬見ただけの姿形が鳥猟犬として立派で素晴らしいと感じる事の出来無い鳥猟犬が何と多い事には驚いてしまいます。
これはボブが断言した繁殖者としての絶対的条件を無視して繁殖した結果の表れでは無いかと思われます。
余談ですがこの様な繁殖者でも例えば新車を購入する場合には、それなりのビジュアルが購入条件となると思います。
 現在は鳥猟犬の体構品評会も開催されなくなりましたが、若し体構品評会を行うとなれば体構審査員に相応しい方々もボブが明確に断言した音楽家・画家・彫刻家・作家の特質を持ち備えた熟練者が要求されると私は本気で信じています。

★ エルフューポインターの起源(Elhew Pointer History)
以下の文章を読み上げます。
 ボブが始めて繁殖に使った台雌は、1936年にスコットランドのグラウス・ムーアから父親のビジネス旅行のお土産として輸入して貰ったジェム・オブ・ファーンを使いました。
当時15才のボブは、父親がビジネス旅行のお土産にスコットランドから輸入した、アオア系ポインターのジェム・オブ・ファーンに史上最高のシューティングドッグの台雄フランク・オブ・サニーローンを交配して初めての繁殖を行いました。
生まれた子犬の中から牝犬のELHEW MIDGEがエルフュー系統の繁殖用台雌として選ばれフィールドトライアルで40勝以上勝ち続けました。
父親のフランク・オブ・サニーローンはオールエイジタイプとしてはワイドレンジでは無く、少しショートレンジでしたが、しかし鳥を見つけるための優れた嗅覚とバードセンスと素晴らしい決断力を持っていました。

  
*****************************************************************************************************************
ジェム・オブ・ファーンとフランク・オブ・サニーローンは、共に傑出した、身体標本であり、ドッグショーで両犬とも優勝しています。
エルフュー・ミッジに、ニューイングランド出身の偉大な台雄、レキシントン・ジェークを交配しました。
レキシントン・ジェイクは、他の多くの有名な台雄と比較して、偉大な種雄の一頭であったとボブは信じています。
14世代まで戻ると、スネークフットの血統書にはレキシントン・ジェークが416回現れます。
エルフューのナショナル・チャンピオンは全て何度もレキシントンジェイクにさかのぼります。
レキシントンジェイクの優性遺伝はエルフュー・ケンネルにおいて証明されました。
体構と心理的なスタンダードを求めて、他の血液も導入されました。
主としてエアー・パイロット等から導入されました。
つまりレキシントンジェイクとエアー・パイロットがエルフュー・ポインター系の根源であると考えることができます。
ボブは、エルフュー系統の肉親の範囲から、逸脱する事無くその血統が性能で優れた突然変異と呼ぶ事のできるより優れた繁殖を求めて、数え切れない多くのテスト繁殖のためにアウトクロス交配を行いました。
50年間で系統を改善したサイアーつまり台雄は、「レキシントン・ジェーク」「アリエル」「ワーフープ・ジェーク」「タイニー・ワフー」「レッド・ウォーター・レックス」「ガード・レール」「フックス・バウンティー・ハンター」の7頭ですが、ガード・レールの母親の驚異的なブルー・ヘン、ネルズ・ランブリング・オンに注目することはたいせつです。
非常に多くの重要なサイアーの母犬で、彼女のボトム・ラインつまり核心、はエルフュー系が主要をなしていて、この血液が彼女の高度な優性遺伝に貢献しているので、「ガード・レール」はアウトクロスでは無くエルフュ系統のメンバーです。
ブルー・ヘンという用語は、ケンタッキー州レキシントン周辺でサラブレットのブリーダーから始まったそうです。
それは交配したサイアーに関わらず、優秀な子馬を生む雌馬を描写する口語的表現です。
同じ事は犬でも真実です。
ブルー・ヘンのポインターは異なるサイアーによって優れた犬を作出します。
何頭かのサイアーは非常に優性です。
そして、そう言えると推測するブルー・ヘンは非常に優性な雌犬です。
ボブもこれが起こる理由について全く解らないそうです。
しかし、それは強い遺伝子プールに由来する近親繁殖された系統から屡々起こるようです。
すべての交配で、平凡なものへという傾向がいつまでも存在します。
もし繁殖が選択することなくでたらめに行われた場合、遺伝子プールがいかに強くても、すべての種類は結局それらの共通の祖先に逆戻りするでしょう。
これは選択がいかに不可欠かという理由です。
純粋なインブリードの系統は、ヘテロジーニアスに繁殖された犬よりもはるかによくこの影響に抵抗することが出来ます。

★ ボブの用語ブルーヘン(BlueHen)を解説します。
以下の文章を読み上げます。
 重複しますが、ブルーヘンについてボブの解説です。
ブルー・ヘンという用語は、ケンタッキー州レキシントン周辺のサラブレットのブリーダー達の間で使われています。
それは交配した種オスの馬に関わらず、優秀な子の馬を生むメスの馬を描写する口語的な表現です。
鳥猟犬でも同じ事です。
ブルー・ヘンのポインターは異なるオス犬でも優れた犬を作出します。
その中でも何頭かのオス犬は非常に優性です。
そしてエルフュー系統のブルー・ヘンは非常に優性な雌犬です。
私はこれが起こる理由について全く分かりません。
しかし、それは強い遺伝子プールに由来する近親繁殖された系統によりしばしば起こります。
然し乍ら、何れの交配でも平凡な系統へ向かう傾向がいつまでも存在します。
もし選択繁殖を怠ると、遺伝子プールがいかに強くても、すべての種類は結局それらの共通の祖先に逆戻りします。
それは、選択がいかに大切かという大事な理由です。
純粋なインブリードつまり近親繁殖の系統は、ヘテロジーニアスつまり異系繁殖で繁殖された犬よりもはるかによくこの影響に抵抗することが出来るのです。

★ ボブは素直にレキシントン・ジェイクを交配しました。
以下の文章を読み上げます。
ボブは、ウィリアム・ハーンデン・フォスターと知り合いになって本当に幸運でした。
以下、ウィリアム・ハーンデン・フォスターをビル・ホスターと書きます。
ボブに、1940年レキシントン・ジェイクの交配を勧めたのはビル・フォスターでした。
頑固でヤンキーなボブでしたが、この話を素直に聞き入れレキシントン・ジェイクを交配した事が世界的に有名になったエルフュー系統繁殖の成功を導いたのです。
レキシントン・ジェイクは歴史上最も優性なポインターで過去75年間でどの犬よりもレキシントン・ジェイクがエルフュー系統に貢献した犬だとボブは声を大にして語っています。
エルフュー系統は例外なく全てレキシントン・ジェイクに遡ります。
これは信じ難い状況ですが事実です。
ビル・フォスターはユニークな人でボブの指導者でした。
ビル・フォスターは根っからの紳士であり、鳥猟犬の優れた分析者であり、非の打ちどころのない道徳的価値観を持った有能な審査員であり、ボブは、数え切れないほどの才能を惜しみなく授かりました。
ビル・フォスターは心の奥まで紳士でした。
ビル・フォスターの業績のうちのいくつかには、おそらく当時最も重要なアウトドア出版物であるナショナル・スポーツマンの編集者を務めたことや、スキート射撃の創案者であり、古典的なニューイングランドのグラウス射撃の作者であり、熟練した芸術家でもあります。
ボブの最も貴重な所有物の一つは、ビル・フォスターの描いたレキシントン・ジェイクの油絵です。
私が2008年米国エルフュー犬舎を訪問した時にブライアンは、私がエルフュー系統についてどれだけ熟知して居るかを確かめる為に話の途中で奥の部屋から額に入ったレキシントン・ジェークの油絵を持ってきてチラリと私に見せました。
私は指を突き出して、ビルホスターと言うとにっこり笑ってその額縁を私に抱かせてくれたので記念写真を撮りました。


★ ビル・フォスターのレキシントン・ジェイクを描いた油絵の物語
以下の文章を読み上げます。
 ボブがレキシントン・ジェークの娘を購入するため1940年の春にニューハンプシャー州カンタベリーのショー夫人を訪問したとき、暖炉上に掲げられて居るレキシントン・ジェイクの油絵に気づきました。
ボブが買おうとしていた子犬は、ビル・フォスター以外は誰も所有していない有名なブルー・ヘンのアロング・カム・ラスの娘でChジェークズ・ベッツイー・ロスでした。
ジェークズ・ベッツィー・ロスは、アール・クラングルの基でタイトルを獲得しました。
アール・クラングルはボブのもう一人の親友で今までで最も才能のあるトレーナーのうちの一人です。
ボブはジェークズ・ベッツイー・ロスに、ホームラン・ハリガンを交配して、エルフュー・マークスマンの母犬エルフュー・ティック・ソミーの作出に成功しました。
 絵画の話に戻りましょう。
ショー夫人は数年後に亡くなりました。
そしてボブは、ビル・フォスターの描いたレキシントン・ジェイクの油絵はどうなったのだろうと思っていました。
ボブは、カール・ビーティーが30年代後期までショー夫人のために働いていたので、良き友人で長年人気のトレーナーであるカールに電話をしました。
彼は絵画がどうなったか全く知りませんでした。
ボブはついにショー夫人の財産を扱った弁護士を探し出しました。
弁護士はその油絵のことを思い出し、そしてショー夫人がそれを任せた人を捜し出せなかったと言いました。
それは誰だったでしょう。
カール・ビーティーでした。
ボブは油絵を見つけたこと、そしてそれがカールに任せられていると伝えるためにカールに電話しました。
 ある日曜の朝、カールはニューヨーク州スコッツビルのボブの家にやって来ました。
その時、私は素晴らしい白黒の雄犬を競技に出していました。
カールは、その白黒の犬を買いたがっていました。
私が本当にその犬を売りたくないとカールに話したとき、カールは自動車の中に持っているものとその犬と交換したくないかと言われました。
さて、あなたはボブの喜びを想像できますか、そしてカールはその犬に非常に満足しました。
ボブは、カールは非常に素晴らしい人だったので、犬のことがあろうとなかろうと、どっちにしろ私に油絵を持たせるつもりだったろうと常に思っています。



★ ELHEW MARMADUKEの血統証
以下の文章を読み上げます。
 この上記の血統証はエルフュー・マーマジュークの血統証です。
ELHEW MARMADUKEは少し訓練が困難でした。
それでも予想通りフェザント・フュチュリティーで優勝しました。
MARMADUKEは訓練が困難な血脈を理由に譲渡しエルフュー系統ラインから除外されています。
血統証を六代遡ると右下から九行目にモントローズ公爵のアオア系八頭の中の一頭アイル・オブ・アラン・フリートの直仔ジェム・オブ・ファーンが居ます。
ジェム・オブ・ファーンはロバート・G・ホイール氏の父親がスコットランドで実際の狩でテストしました。
其の結果ジェム・オブ・ファーンが生後僅か8ヶ月というのに一番優秀だったのでロバート・G・ホイール氏(息子)へのお土産に輸入した台牝です。
この日本キジを得意とするアオア系の血脈を失う事無く最後まで引継ぎ、エルフュー・スネークフットの直仔、エルフュー・トム・フールで証明されました。
エルフュー・トム・フールは36ヶ月でナショナル・チキン・チャンピオンシップでチャンピオンを獲得しました。
ボブが健在だったらエルフュー・スネークフットより有名になったと思います。


★ ロバート・G・ホイールの(ボブ)功績を紹介します。
以下の文章を読み上げます。
 ボブが少年時代の好きなヒーローはカリフォルニアの有名な植物ブリーダー・ルーサー・バーバンクや種の起源の著者チャールス・ダーウィンとエンドウ豆で実験したオーストリアの遺伝学者グレゴール・メンデルと言う一寸おかしな少年でした。

水耕栽培という単語が生まれる前に、十代で、ドイツやアジアから珍しい種子を輸入して、自然環境での亜種などを考慮し、自然界から隔離して水耕法で植物を育てたり、1936年代の終わりに大流行したシルバー・フォックス(ギンギツネ)を大学に進学するまで繁殖し大成功しました。

又、ボブは、スポーティング・ブロンズ専門の賞賛を浴びた彫刻家でもあります。
主に自分のポインターや純血のサラブレット、野生の動物、および時にはブロンズ像などを制作しました。
これらボブの完璧な作品はニューヨーク州サケッツ・ハーバーのライム・ロック・ギャラリーで見ることができます。
私は2008年にウィール財団が管理しているライム・ロック・ギャラリーを見学しました。

ボブは大学を卒業すると同時に、再び動物の繁殖を始めました。
最初は豚で、交雑を重ね、年間400匹生産しました。
シカゴ市場の豚価格と比較して粗食で飼育できるので餌代が安価で施かも最高価格を得る繁殖に成功しました。

この間15才から始めたエルフュー犬舎のポインターは、そのプロジェクトで活発に核心を追求していました。
以下の文章を読み上げます。
 次に乳牛について2年間、血統や重要な雌の系統を猛烈に勉強し、それらの畜産と繁殖についてボブの出来ること全て学び10年かけて30,000頭以上のニューヨーク州で最も高い脂肪を生産する群れを持ち、農場主を魅了するミルクとバター脂肪の記録を達成し多くのチャンピオンを作りました。
その中の1頭、ナショナル・チャンピオン・グリーナウェイ・デンバー・サバランと命名された若い雌牛は2歳で年間8.2トンのミルクを生産しました
以下の文章を読み上げます。
 次に、アラバマ(Alabama)州で競走馬のサラブレットの系統繁殖に没頭しました。
ここでの核心は偉大な競走馬ネイティブ・ダンサーを基礎に、系統を構築した競走馬を作る計画でした。
ネイティブ・ダンサーのハンサムな息子ムービング・ターゲットを候補に選びました。
ネイティブ・ダンサーの孫娘にムービング・ターゲットを交配してまあまあの成功を達成しました。
ボブは今までの慣例にとらわれず自己流のトレーニングを行いました。
それは魅惑的であるが非常に骨の折れる任務でした。
不運にも犬で試みたように馬の系統を純化するには、50年間の犬の繁殖と同じ結果を達成するには馬を200年以上繁殖をする必要があると気づきました。
そこで、非常に成功した1982年に78頭の一群を全て売り払い競走馬の系統繁殖を諦めました。
其の一群の中のウイン(Win)は、偉大な競走馬であり続けました。
ウインは3年連続ニューヨーク州のホース・オブ・ザ・イヤーを獲得して、新しいオーナーのために140万ドルを稼いで、ナショナル・トップ・ホースの1頭になりました。
以下の文章を読み上げます。
 次に9年間、粗食で良質の肉牛スコッチ・ハイランド・キャトルの群を繁殖し非常に評価を受けました。
又、1枚の白い羽を持った伝書鳩を基礎に純白の系統を作ったり、非常に静かな野生七面鳥の繁殖や、闘鶏の繁殖などを手がけました。
余談ですが、ボブは高知県の天然記念物である尾長鶏と闘犬の土佐犬の見学で高知県を訪問した時に、高知では大型のポインターを使って荷車を引かせていたと言う話を聞かされたそうです。
この話を聞いてから日本人が訪ねて来たらボブは、高知での荷車を引く犬の話を思い出し、エルフューポインターの基礎犬は荷車を引くポインターだと日本人を馬鹿にした話をしています。
ボブの犬舎を訪問した日本人がその話を聞かされて反論できる人が一人も居ないとは情け無い話です。
その様な無知な人達に60年の人生を費やして作出したエルフュー系統を譲渡して頂けないのは当たり前の事だと思います。
以下の文章を読み上げます。
 ボブは世間からは遺伝学者と高く評価されましたがボブは只運が良かっただけだと答えたそうです。
ボブは、その他に出版会社の責任者やゼネシー・ブルーイング・カンパニーの経理、販売および広告担当重役などを歴任しながらひたすらエルフュー・ポインターの系統繁殖を続けたのであります。
又、ボブは、生まれながらの自然保護論者でありボブの犬舎にはセメントやプラスチック材料は見当たらず自然消滅する鉄や木材を使って居るのが特長です。

この様な経歴を持つ、ロバート・G・ホイール氏は、ニューヨーク州スコッツビルとアラバマ州ミッドウェイに住むエルフュー犬舎の犬舎主であり、経営者でした。
ボブの意志通り亡き後は、ニューヨーク州スコッツビルの183万6000坪の所有地全てをニューヨーク州へ寄付しアラバマ州ミッドウェイの183万6000坪の所有地もアラバマ州へ寄付しました。
現在ニューヨーク州スコッツビルの一部は狩猟区として解放されているそうです。

ボブは猟犬の訓練から作出に生涯の大部分を費やしてきました。
エルフュー・ポインターと共に猟をし、フィールド・トライアルにおいて、実際にエルフュー・ポインターをハンドルし、審査もしました。
ボブは、1936年から実猟犬の系統の作出に着手され、27年に及ぶ血の滲むような努力と研究の結果純粋な遺伝子プールを持ち合わせた、エルフュー系統を確立しました。
ボブの主な輝かしい功績は、数多くのナショナルチャンピオンを作出した実績です。
ボブは1974年に殿堂いりしました。
1991年にエルフュー・ダンシング・ジプシーでトップ・シューティング・ドッグ・アワードを獲得
1995年エルフュー・スネークフットでトップ・シューティング・ドッグ・アワードを獲得
1999年エルフュー・ラジテーターがトップ・シューティング・ドッグ・アワードを獲得
2005年エルフュー・スネークフットが殿堂入りと言う輝かしい功績を残しています。
ボブはこれに止まる事無く生後16ヶ月のエルフュー・スネークフットをエルフュー・シークレットに交配しエルフュー・トム・フールを作出しました。
1995年エルフュー・トム・フールは生後36ヶ月、つまり3才の若さでナショナル・プレーリー・チキン・チャンピオンシップを獲得し、父親のスネークフット以上の特質を持った看板犬の一頭となりました。
この偉業は1936年スコットランドから輸入したアオア系台牝ジェム・オブ・ファーンの血統の特質が59年経過しても日本キジを得意とする血統を失っていないことをナショナル・プレーリー・チキン・チャンピオンシップで証明しました。
ジェム・オブ・ファーンはモントローズ公爵のアオア系八頭の中の一頭アイル・オブ・アラン・フリートの直仔でボブの父親がスコットランドで実猟のテストをした結果生後8ヶ月というのに一番優秀だったので息子のボブへのお土産に輸入したアオア系の台牝です。
これは現在でも実猟マンの間で人気の高い明治から大正時代に朝鮮経由で、輸入された系統が在来犬として使役されて居ます。
この在来犬達の原種はフランスからの由来で、スコットランドの猟野で改良された系統を継承しているのです。
ここで特筆すべきは、ニホンの山野に生息する日本キジは世界中でニホンにしか居ないと言う事です。
従いまして鳥猟犬産出国では日本キジ用の鳥猟犬の作出はされていません。
然し乍らスコットランドに生息するRed Grousの中に日本キジの様な逃避能力を持ち備えたゲームが偶然にも存在していたためにそのゲームを得意とする血統が日本キジを得意とする血統として認知されたと思います。
換言すればRed Grouseを得意とする血統で無いと日本キジを狩るための鳥猟犬としては疑問が残ります。
その疑問と言うのは、日本キジ独特の逃避行動である空と地上の天敵を避けるために竦んで様子を伺う行動様式を誘発する事の出来る系統で無ければ、鼻先や顎の下で日本キジをポイント出来ないのです。
さらにエルフューポインターは、NationalChampion・ダンズ・フェアレンス・バッドのアウトクロスによりスコットランドの聖地へと遡る系統へとより進化しました。
極端に言うと、メジャー系スポーティングドッグがRed Grouseを得意とする系統へと進化した系統がエルフュー系統なのです。
特筆すべき点はRed Grouseに強いエルフューポインターは同じ性質を持ち備えた日本キジを得意とする系統と言う事になります。
Red Grouseと日本キジの逃避行動は犬の足跡つまり地響きを察知して、這って逃げたり飛んで逃げるのです。
日本キジが地震の予知能力があるというのはこの地響きを感じ取る予知能力だと言われていて大きな地震の前にやたら日本キジが鳴いたという話を聞いた人が居るのでは無いでしょうか。
有名な話では、高知県大豊町大王地区で南海地震の前に日本キジが激しく泣いたと言う話が有名ですが、あれから77年も経過しましたので証言者も殆ど居無くなりました。
以下の文章を読み上げます。
 ボブは、40年以上ベストセラーとなった、ストレスのかからない鳥猟犬訓練の聖書とも言われた著書ウイング・アンド・ショットを1964年に出版しました。
1991年には、ウイングアンドショット本の改訂版のビデオ版2時間VHSトレーニングビデオを製作し、現在はDVD版で販売されています。
1996年には、熟練したトレーナーやブリーダーが数年も待ち望んだ著書Snakefoot The Making of a Championを出版しました。

以下の文章を読み上げます。
 以上の経歴を持つボブは、1966年(昭和41年)頃までは日本のトライアルマンに対して好意的であったがいつの間にか人種差別とも言える言動をあらわにし、日本人に、エルフュー直系の販売を拒んだのであります。
どうしてこの様な事態になったのか私にとっての研究課題の一つでした。
ボブの著書ウイング・アンド・ショットの翻訳にあたってのボブからプレストン将軍への便りの内容から察するに、ボブの作出犬エルフューが日本人の無知な飼育管理や訓練ミスの為に評価される事無く、エルフューの名前のみ一人歩きして、金儲けの為に使われた事が彼の怒りに触れたのではないかと思います。
そのほかにも理由がありますがここでは割愛させて頂きます。
以下の文章を読み上げます。
 鳥猟犬の歴史上もっとも素晴らしいポインターの系統の繁殖に成功したエルフュー犬舎主ボブの著書WING & SHOTの翻訳に関連したプレストン将軍への手紙の内容を記載します。

親愛なるプレストン将軍殿
1966年4月11日
大変遠方からでしたが貴殿から再びお便りを頂戴出来た事は大変嬉しく存じます。
日本の方々がウインド・アンド・ショットの、どの部分でもご希望なだけ翻訳される様喜んで居ります。
又そうされる事を承認致します。
私は出版元であるカントリー・プレス・パブリッシングカンパニーを所有して居りますので出版者の許可も心配なく得られます。
私唯一の希望は翻訳された、日本語版を数冊お送り戴き、又ジャパン・フィールド・クラブの会員となりたい事です。
無論ジャパン・フィールド・トライアル・クラブのいくつかの刊行物が英訳される事を望みます。
貴殿の出版を楽しみにお待ちして居ります。
敬具
ロバート G.ウィール   プレストン将軍
以下の文章を読み上げます。
 エルフュー犬舎では、血統継続用の犬舎と売却可能犬舎とに分ていました。
日本人には、売却可能犬舎に居る犬しか譲渡しませんでした。
唯一輸入されたエルフュー系統は、私の知る限り、1964年に米国のアルビンニッチマン氏からボブと共同所有のエルフュー クイック ドローが輸入されています。
このエルフュー直系の賞歴は2回のNationalChampionと3回のチャンピオン獲得犬でしたが、共同所有者のボブの承諾なしに譲渡したので返したと聞いて居ます。
エルフュー クイック ドローを高知の野村氏がアオア系に交配して、母親を凌駕した素晴らしい子犬が誕生しましたが、一代でその継承は終わってしまいました。
その後、日本に輸入されたエルフューポインターは全て第3者を通じての輸入やテスト繁殖されたものでエルフュー犬舎からエルフュー系統の繁殖用素材犬の牡犬も牝犬も輸入されていません。
エルフュー犬舎の犬はボブの犬識眼で確かな仔犬を選別する事により立派な素材犬につながるのです。
日本でエルフュー系と名乗るポインターをよく見かけましたが、外見つまりVisualだけで判断してもエルフュー系統3種類の外貌とは異なります。
その様な理由から、現在私の知る限りエルフューの系統繁殖を継承している犬舎は知りません。
◆ 下図は、アルビンニッチマン氏が共同所有者ボブの承諾無しで譲渡されたエルフュー・クイック・ドローの記録簿です。
文字が不鮮明なので画像の下に書き記します、

英ポ 牡 CH.エルフュー・クイック・ドロー 昭和39年7月7日 神奈川県 寺田 忠明
 1966年 レジオン10・アマチュア・シューティング・ドッグ・CH.
 1968年、1969年パシフィック・コースト・CH.
 1968年、ナショナル・チャカー・オープン・CH.
 1970年 ナショナル・アマチュア・シューティング・ドッグ・CH.
 1971年 イリノイス・オープン・シューティング・ドッグ・CH.
以下の文章を読み上げます。
 ボブが子供の頃の一般的アイドルは、映画監督の「トム・ミックスやフート・ギブソンやベーブ・ルース」でした。
然しボブの大好きなアイドルは、カリフォルニアの有名な植物ブリーダー「ルーサー・バーバンク」と種の起源の著者「チャールス・ダーウィン」とかエンドウ豆で実験したオーストリアの遺伝学者「グレゴール・メンデル」と言うちょっと可笑しな子供でした。
ボブは水耕法と言う単語が無い時代にドイツやアジアや遠い国から珍しい種子を取り寄せて水耕栽培を楽しんでいました。
ボブは1930年代の8才頃から銀狐の繁殖を開始したり父親のために鳥猟犬の訓練を行ったりして大成功しました。
ボブは1936年15才からELHEW POINTERの繁殖を27年頑張ってエルフュー犬舎での系統繁殖に成功しました。

以下の文章を読み上げます。
 ボブは大学を卒業して再び動物の繁殖を始めました。
初めは豚で、ここでの核心は、小食で生産性の高いより大きなベーコンやハムの生産のために、赤身で長い胴の枝肉を生産する目的で年間約400匹の豚を生産し、シカゴ市場の豚価格と比較して最高の価格を得る事が出来ました。

以下の文章を読み上げます。
 ボブは次に2年間猛烈な勉強をして全てを学び、ホルスタイン乳牛の繁殖を開始して30000頭以上の群れを集めニューヨーク州で最も高い脂肪を生産する群を持ち、5頭の州チャンピオンと1頭のナショナル・チャンピオン、グリーナウェイ・デンバー・サバランと命名された若い雌牛を作り上げました。

以下の文章を読み上げます。
 ボブは次にサラブレットの繁殖を行い、目的は偉大な競走馬ネイティブ・ダンサーを基礎に構築された馬の系統を作ることでした。
50年間の犬の繁殖と同じ結果を達成するには200年以上馬の繁殖をする必要がある事がわかり、非常に成功した1982年に、Saratoga Fasig Tipton Saleで78頭を競売で売り払いました。
売られた若い馬の1頭はウインと命名されて偉大な競走馬であり続けました。
ウインは3年立て続けにニューヨーク州のホース・オブ・ザ・イヤーになり、新しいオーナーのために140万ドルを稼ぎ、全国のトップ・ホースの1頭になりました。

以下の文章を読み上げます。
 この9年間ボブは、スコッチ・ハイランド・キャトル牛の小さな群れを繁殖しています。
それらはスコットランド北部地方を起源とする非常に古い系統です。
長年にわたり世界のその一部で厳しい気候条件に適応するために進化して大量の皮毛に覆われた一般的に非常に丈夫で、雪の中で食物を捜すことができます。
これらの従順で美しい動物は、ヘンダーソン近郊によく適合しました。スコッチ・ハイランド・キャトル牛の肉がまったくの赤身なので、脂肪の大理石模様を減らすために普通の牛の種類と交雑されて、非常に高く評価されました。

以下の文章を読み上げます。

 ボブは、十代の時から闘鶏を飼っていました。
アーサー・ペイン博士から数羽の原種の鳥を手に入れました。
博士はレキシントン・ジェークの娘でジェークズ・ベッツィー・ロスの姉妹のアンド・ゼン・ジュリアのオーナーであり、それはエルフュー系に非常に重要でした。
ボブは、自分が闘鶏にたいして持つ大きな魅力を完全には理解できませんでしたが、私たちの祖先の非常に多くがそれらを飼育していたので、我が国の初期の歴史の一部としてそれらを見ています。
生まれつき、ゲーム・コックつまり闘鶏の牡は威厳のあるカリスマを備えた大変気品のある貴族的な鳥で、蹴るのが非常に美しい。
ボブは当時、セーター・ホワイト、ハッチ、グレーおよび数羽のクラレットを含むいくつかの系統を飼っていました。
クラレットは友人のノースカロライナ・モックスビルのポール・ウォーカーから数年前に貰ったそうです。

以下の文章を読み上げます。
 家禽の系統では、野生の七面鳥を捕まえて飼育していました。
たった2〜3世代でそれらの狡猾さは驚くほど静まりました。
それらは現在、全く気楽に私たちの庭やケンネル・エリアを歩き回ります。

 私が、2008年に米国エルフュー犬舎を訪問した時に犬舎主ブライアンが管理しているチョウクボアー犬舎と狩猟区の回りで大人しい七面鳥を見る事が出来ました。

以下の文章を読み上げます。
 ボブは、1935年に始めた伝書バトの同じ系統がいます。
そして現在は白いちゃぼのコーニッシュ・バンタムと白いオールド・イングリッシュ・バンタムの2つを交雑して脂肪のない鶏を生産しました。
 これらの様々な繁殖努力を続けていましたが、最初から突き進んでいたのは、決して中断することのなかった目標、良いポインターを繁殖することでした。
これらの動物を繁殖した経験は学習プロセスに非常に貢献し、そして可能な限り最良のポインターを繁殖するという私の最終目的に明瞭な方針を作るうえで役立っています。

以下の文章を読み上げます。
 ボブは、2002年7月12日の夕方肺炎のため享年82歳で亡くなりました。
エルフュー・ケンネルはロバート・ゴードン・ウィール夫妻が最も信頼のおけるブライアン・ヘイズ氏とマーサー婦人にエルフユー・ポインターとエルフユーの犬舎号を無料で与えました。
ブライアン・ヘイズ氏は、堪能なガン・ドッグ・トレーナーでロバート・G・ウィール夫妻は彼が大好きで、とてもよい仕事が出来るので生前より二人で決めていたそうです。



Builder Home Page

Builder Home Page